生まれ故郷

其々の国に生まれ、育ち、そして学んできた。

第一作目は生まれ故郷。

生まれは日本。祖国の国旗に見立てて描いた。

女の子は日の丸を意味し、 これから降ってくる希望や可能性を見上げている。

万物流天

「万物流転」物事は変化する。ヘラクレイトスが残した言葉だ。昨日見た景色は必ず今日と同じとは限らない。その時受けた感動は必ず今日(こんにち)まで心に残るとは限らない。自然風景も生物も人の感情も同じ原型を保てる事は出来ない。その言葉を因んで、私は世の中の変化を一傍観者として覗いてみた。そして辿り着いたのが「万物流天」という作品だ。どんなに実績を得てもどんなに富や名声を手に入れても、全ては手元に残らない事を悟った。人が考えを失い、亡くなれば、無になる。星が死に、消えれば、空(くう)になる。いつか必ず全てに終わりが来る。また、宇宙から見た生物の寿命はほんの一瞬のモノ。本作品の少女は万物を表し、少女の手元から流れ落ちる生命の源である水(モノ)は駿足に無音無時の天(宇宙空間)へと 溶けていく。それを表す為に馬を作中に入れた。

月下美人

自分の居場所が見つからず彷徨っていたけど、最後は星になる…、人生そのものを宮沢賢治の「よだかの星」を重ねた。その人が最後に辿り着くのが星ではなく、自分の本当のポジションが見つかる事をイメージした。これは、夜鷹の雛が月光を浴びて大きくなる過程だ。口を大きく開けてアピールしているけど、まだ声は届かず。いつかは成鳥になって、大きな翼を広げて大空に羽ばたける事を祈って描いた。
花は月下美人で、自分の合った月夜と自分の合ったタイミングで花を咲く事をイメージした。1人1人花咲くタイミングはバラバラだし、水面下で構築されたモノがいつか日の目に出るように、葉っぱを翼に見立てて描いた。この絵に希望を添えて…

極楽鳥花

日の下で自分の目指す場所へ旅立つツバメ。気候や飛び出すタイミングにより、旅立つのが早い子も遅い子もいる。それを1人1人の人生に重ねてみた。早咲きする人もいれば、遅咲きする人もいる。その人のタイミングで1つ1つの事をこなしていく場面をこの絵で表してみた。
花は極楽鳥花で、輝かしい未来を示している。努力し、信じていれば、必ずこの花言葉のような未来を手にするだろう…

「愚像」と「偶像」

ー 愚像 ー

今やバーチャルリアリティやAIが普及する中、コンピュータで作り出したモノも本物のように感じる時代。内閣府のホームページにも2050年を目処に人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現しようと目指している。その科学の進歩の中で私達人間が失われるモノは少なくはない。今や現実に触れられるモノや感じれるモノが囚わられ、電子機器に支配される世の中へと変わってきた。本来持っている動物的感覚もスマホやタブレット、パソコンなどで制御され、今や「取り敢えず調べる」が必ず入って来る。普段聴こえるささやかな風の音や、肌で感じ取れる微妙な季節の変化もかき消されつつある。動植物の移り変わりなど年々季節のズレが目立ち、近いうちに私達から四季が奪われるだろう。異常気象に対して今の私達はどこまで瞬時に察知出来るのだろうか。小さい箱ばかり目を向け、周りへの注意が散漫になっている人とよくすれ違う。自分自身の感覚で動けている人はどれだけいるのだろうか。

その非現実的なモノを私は白い四角(スマートフォンを見立てて)。その中にはデジタルな花。美しいモノだけど、どこか不自然さを感じさせられる。空のグラスは命の源である水が枯れている意味を表し、周りの鈴は私達に気づかせる為の警報として描き入れた。

ー 偶像 ー

人間が認識出来ているモノはほんの一部。本物を知るには自分の目で眺め、鼻で嗅ぎ、耳で聴き、皮膚に触れ、必要の場合には味で確認する。だが、本当にそれで全てを知った事になるだろうか?目には錯覚があり、鼻は慣れると本来の匂いが分からなくなり、耳では聴こえない音もある。寒暖によっては触れた感覚が失い、味覚もわからなくなる。私達のいる次元で得られた固定概念は、本当に現実なのだろうか。モノの捉え方は各々違う。自分の正解は他人からして正解とは限りらない。この地球上の生き物は同じ細胞の塊で出来ているけど、全く同じ生き物はいない。だから、この世に生きている限り私達は相手を肯定も否定も出来ない。従って、私達が見えて感じているモノは「偶像」でしかない。それを本物のようで偽物の造花に見立てて描いた。

Visible

「無」。意識せずに頭を空っぽにすると、モノの認識が出来なくなる。その先に現れた何かが私には見えたのだ。その先にある無我の境地の先をこの作品に表現してみた。それは「幻」かもしれない。しかし私は自分の目で見えたモノを信じ、それを形にしてみたのだ。

生きていると不思議な体験ばかり。その中で、触れ合い、向き合って生きていくのは本当に大切な事だと思う。人生のあり得ない体験を感じて、楽しむ。それは自身にとって唯一無二のモノである。

Invisible


作品のテーマは「馬」ではない。「馬が描いてある」と思うが、見えているモノに囚われてはいけない。人間はどうしても目に入ってくる情報を直球で受け止めがちだが、視点をずらすと実は変化球だったり、消球だったりする。この作品はその消球なのだ。これが私が表したい内心(面)世界。あるようでないモノ。ないようであるモノ。を、私自身の五感を通して受け取ったメッセージなのだ。

同じモノでも、複数人いれば注目する所も変わってくる。
例えば、ある石鹸の広告ポスターにレッサーパンダが載っている。(←つい最近見たモノ)「わあ、かわいい!」と反応する人もいれば、「なぜアライグマじゃなくて、レッサーパンダなんだ?」と疑問に思う人もいる。捉え方は人それぞれだが、別にその気持ちは合っているとか、間違っているとか、そういう分別はなく、ただその人の受け取り方、感じ方があって、それを素直に表現しているだけである。もちろん「可愛くない〜」と思う人もいれば、何も思わず通り過ぎる人だっている。世界に80億人もいるから、どんな思いがあっても不思議ではない。

この作品に焦点を戻すと、確かに普通に見れば「馬」が描いてある。しかし、意識せずにジーッとぼーっとして見ていると「見ている」事から外れてくる。そうすると、無意識の世界に入り、何も感じなくなり、認識出来なくなるのだ。

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